高 橋 竹 山

(1910−1998)
明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。1998年2月5日、全国のファンが惜しむ中、享年87歳の生涯を閉じたが、高橋竹山の哀愁のある魂の音色はいつまでも人々の心の中に響きつづけている。


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| 二代目・高橋竹山 | 書籍 | 音源 |思い出


 

文芸あおもり 千空対談 第10回より

 

 

故・佐藤貞樹氏

 

故・成田千空氏

1926年青森市生まれ。1995年青森芸術
鑑賞協会の設立にかかわり、1981年まで
事務局長として働く。その間数多くの音楽・
演劇などの鑑賞会を開く一方、1970年代
はじめから高橋竹山の三味線を全国に紹介
することに力を尽くした。1981年以降はその
仕事に専念、1998年竹山死去まで行を共に
した。
著書に「自伝・津軽三味線ひとり旅」の
聞き書き、「おらの三味線いのちの音だ」
「高橋竹山に聴くー津軽から世界へ」
などが
ある。2001年8月18日午後2時34分、食道
がんのため青森市内の病院で死去、75歳。

銀河鉄道夏泊線はくちょう駅長が、高橋竹山の
プロデューサー佐藤貞樹氏の軌跡を伝える。
はくちょう駅つうしんのホームページが開設
されました。

  1921年青森県生まれ。俳人で『萬緑』同人。
青森県文芸協会理事長。中村草田男門下。
第一回文芸協会賞受賞。
第二十八回俳人協会賞(昭和六十三年)。

第三十二回蛇笏賞(角川文化振興財団設定)
句集『成田千空句集』『地霊』『人日』など。

2007年11月17日午後0時11分、前立腺
がんのため青森県五所川原市の病院で死去、
86歳。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

下記の内容は、文芸協会出版と対談者の了解のもとに転載したものであります。

「文芸あおもり」147号、2000年7月30日 青森県文芸協会


 佐 藤 貞 樹

-- 高橋竹山を語る --

心に沁みる音が全国のファンをとらえた、
津軽三味線奏者・竹山の原点と魅力を探る。

◇ 最初に ◇

竹山の演奏が俳句の題材に

津軽の「匂い」のする演奏

疑問が多い津軽三味線の系譜

豊月の音楽に魅せられた竹山

大きかった雲竹との出会い

メシが食える芸道をめざす

新聞社の民謡大会を拒絶

34歳で盲唖学校へ入学

末期のやすらぎ、いやしの音

山で自然の音を聴き曲想を練る

竹山の音には実体がある

労音との出会いで世界が広がる

世界の民謡やクラシックも聴く

竹山の音は次世代に引き継げるか


最初に

 

千空  今日は、佐藤貞樹さんに竹山のことについて聞きたいと思います。佐藤さんは青森県芸術鑑賞協会事務局長として、竹山に協力し、約30年間にわたって、2,000回をこえるコンサートやレコード・CD出版などに携わってきました。 「自伝・津軽三味線ひとり旅」は、長年にわたる聞き書きを佐藤さんがまとめられたものですね。

 

佐藤  はい。

 

竹山の演奏が俳句の題材に

千空  竹山の演奏を題材にした俳句がここにあるんですがね。昨年の五月に夏泊半島で「萬緑」の吟行会があった折、佐藤さんの家で竹山の演奏をビデオで聴いていて、句作をした人が多かったのです。

 渾身の五月の樹勢津軽三味
 花無くてなお花吹雪く津軽三味

竹山の三味線を聴き、花がないのに花吹雪の印象をもったという句です。予備知識がなく津軽三味線の演奏を聴いて、その印象を句にしている。竹山の三味線を聴いて啓発されて俳句ができたことに注目したい。

 竹山千空骨相相似藪椿
 根っこのような竹山の腕汗ひかる
 かめ虫へ竹山翁の叩き弾き

それぞれにリアルな句です。へふり虫、カメ虫が右往左往している。竹山の叩くような響きに虫が驚いているとうたっている。このように竹山の三味線に触発されて、俳句ができるということは、どういうことなのか。三味線演奏のある民謡酒場へもたくさんの人々が行くようだが俳句は出来ない。竹山の三味線は俳句ができる。佐藤さんの山の家で純粋な津軽の音を聴いたせいだろうか。津軽三味線は全国的なブームになっているが、純粋に津軽を聴かせるのは、竹山だけでしょうね。

 

津軽の「匂い」のする演奏

佐藤  津軽三味線ブームは、前々から言われてはいましたが、全国的に竹山の三味線を聴いてもらうようになった時も、ブームだといわれました。ブームというのは一時的なにわか景気のことをいうのですが、そうだとすればもうとっくに下火になるはずだが、名声も演奏も亡くなるまでずっと続いているのは、津軽三味線奏者としては竹山しか居ないと思います。

千空  思うに質の問題でしょうね。

佐藤  波岡町の故平井信作さんが言っていましたが、竹山以外の奏者たちは、まな板をすりこぎで叩いているような音で、こちらに響いてこない。竹山の音は心にしみこんでくるようだと。竹山は、いつも言っていました。「自分は、三味線を弾いて、津軽の匂いを出したいのだ。その音を聴けば津軽というものが見えてくるような曲をつくり演奏したいのだ」と。自分は学問がないから「匂い」としか言えないが、そういうものが伝わるという音があるはずだと。

千空  そうですね。魂の音ですね。入魂の曲ですね。どうして俳句ができるかというと、あの音を聴いていると、ただ楽しいのではなく、全身全霊を傾けてつくりだす音に感動し、触発されるのだと思います。要するにジャワメグ(心が騒ぐ)んですね。

佐藤  そうです。そうです。

千空  私が思うに、竹山といえども初めからそうではなく、長い修行の時期があった。それに盲目ということが一つの要因だと考えられます。目の見えない者の仕事として、座頭としての技をみがいた。昔は目の見えない人が多かった。生活の貧しさから治療ができない、麻疹熱やトラホームばかりでなく、サルケ(泥炭)を焚いたりして目を悪くした人が多い。環境が悪かった。竹山もその一人で、15歳で目の見えない隣のボサマ、戸田重次郎の弟子になったと言っています。この戸田はたいして三味線はうまくなかったそうだが、非常に基礎的な筋の通った教え方をした、たいした為になったと、竹山は言っている。

佐藤  そうです。その通りです。

 

疑問が多い津軽三味線の系譜

千空  このボサマの世界から、三味線弾きが、次々と出てきた。ゴゼ(瞽女)との関係はどうだろうか。大條和雄(「津軽三味線の誕生」の著者)は、神原の仁太坊あたりが津軽三味線の元祖だと言っているが、どうだろうか。神原は岩木川の湊で、昔は十三湖から白帆の船がどんどん岩木川をのぼって来た。五所川原にも湊はありますが、ゴゼとか、旅芸人がたくさん津軽に入り込んで来た。神原に流れついた女芸人と渡し守をしていた三太郎という人との間に生まれたのが仁太郎。その母から三味線を習ったのが仁太坊だといわれている。

佐藤  そういわれていますね。

千空  その仁太坊の流れが、津軽三味線の元祖だとすれば、それと竹山とどうつながっていくかですね。その辺をちょっと聞きたいと思いますが・・・。

佐藤  竹山は、仁太坊が津軽三味線の元祖だという説は、真っ向から否定していますね。

千空  否定していますか? どういう根拠ですか。

佐藤  竹山は仁太坊を聴いているわけですが、あれは音楽というものじゃないって言っていますね。

千空  そうですか。

佐藤  津軽三味線はゴゼの影響があるというふうに研究者は、言っていますが、だいたいゴゼ達が歩いたのは山形県どまりでしょう。青森県までも入ってきたといわれていますが、あの人たちは、一人で歩くのではなく組を作って三、四人で歩き一人で勝手に行動できない組織になっています。だから青森県に来たという記録も何も残っていない。仁太坊がゴゼからの系統の三味線だということもはっきりしませんね。もしゴゼだとすれば、”離れゴゼ”といって、破門されて、ひとりで放浪して来たのかも知れませんが。

千空  仁太坊が三味線を習ったのは、ゴゼの三味線弾きであったという説はあるのだが、本当かどうかはわかりません。竹山は、仁太坊の元祖だという説に否定的なんですね。

佐藤  まったく否定的ですね。

千空  否定的であるということはどういうことでしょうね。

佐藤  大條さんの研究では、仁太坊が元祖で、それから習ったのが白川軍八郎、軍八郎が小さい時に仁太坊に入門して、門付けの手引きらしきことをして歩いた、そのつながりが津軽三味線の発展経路になっている、と。

千空  そういう意味では、確かに仁太坊から習ったという軍八郎、こういう人のことはわかるのだが、竹山の場合は、梅田豊月から習ったといわれていますが、やっぱり本格的に習ったのは豊月ですか。

 

豊月の音楽に魅せられた竹山

佐藤  そうではありません。竹山の師の戸田というボサマが豊月から「三味線じょんから」一曲習っただけです。どちらも師弟関係はありません。梅田豊月も身体障害者でした。

千空  そうですか、やっぱり盲目でしたか。

佐藤  いいえ、目は見えるのですが、たいへん小さい人だった。小男のことを福助といいましたね、手も足も短い。だから独特な三味線の弾き方であったそうです。仁太坊のように叩く三味線ではなかったそうです。竹山が、なぜ豊月の音楽に惹かれているかというと、門付けして戸田重次郎と函館に行ったときに、豊月と会ったわけです。竹山が習った師匠の戸田が、豊月から津軽じょんから節を一曲習っているんですね、その関係で、竹山を豊月に会わせた。会ったら竹山にちょっと弾いてみろと言い、「唄はたいしたことはないが、三味線はたいしたものになる」と言われたと言っていました。その時に聴いた豊月の三味線の音が一生耳から離れなかったそうです。その音というのは、つまり普通の人が弾いても出ない音であったというんですね。指が短いので棹に届かない。持てないから力が入らない。合理的にバネで弾くという方法であった。なんとも言われない不思議な音で、叩くのではなく琴のようなきれいな音であったとか。15,6歳の竹山が聴き、耳に入れたその音が忘れられなくて、なんとかその音を出したいと思ったそうです。津軽の匂いを出したいと思うことにつながっていくんですね。

千空  豊月の音がヒントになっていくんですね。

佐藤  そうだと思います。私が感動するのは、その音をつくり出したのは、体の不自由な障害をもった人たちだということです。これは大事なことだと思っています。

千空  障害ということと、そういう芸とのつながりについて考えてみると、いわば日本の盲人文化は早くからあった。琴とか琵琶、ああいう音というのは、盲目の人たちによってできあがっていった。琴や琵琶などは、検校・座頭というようにはっきりとした職人として認められていたが、ずっと後々まで三味線は無視されてきた。投げ捨てられていたのだ。目の見えない人たちが三味線弾きになる。ゴゼなどもそうだが。竹山がどうしてその中できわだってくるのか。耳がいいんでしょうね。竹山は、いろんな音楽を聴いていますね。

佐藤  そうです。私もいろいろ聴かせました。

千空  バイオリンであろうが、バンジョーであろうが、音に感心し、関心があるんですね。自然の音、風の音とか水の音とか、音に対する関心があるということは、竹山の音に対するきわだった能力というか、やっぱりものすごい才能なんですね。竹山にしかない独特な才能でしょうね。

佐藤  彼だからできたんですね。

千空  話は変わりますが、私は白川軍八郎の三味線を聴いたことがあるんです。戦後、五所川原の飯詰で帰農生活をしていたころ、村に毎年ウデコ(民謡の唄い手)が来る。私は子どもの時から津軽の唄に対して関心があったので、近所の空地に聴きにいくわけですが、小学生は私が一人でしたね。ずっと津軽民謡や三味線に関心があったんです。私の中に風土性の内在するものの匂いがしみこんでいるからではないかという気がするんです。だから竹山に対しても無関心でいられない。

佐藤  わかりますね。

千空  軍八郎というひともやっぱり目が見えなかった。体の大きい人で馬力があるんですね。本当に叩くようにして三味線を弾く人でありましたね。曲弾きもうまい人でした。私が竹山の三味線を聴いたのは、戦後です。

 

大きかった雲竹との出会い

千空  話はとびますが、竹山が自分で言っているように、小さい時から門付けして歩いて、苦労した。口では言えない惨憺たるものすごい苦しみをしたんですね。ただ苦しいばかりで、三味線弾きながらの門付けはほとんど学ぶものがなかったと言っている。「二文三文のジェンコが欲しいから歩くんだ」と言っているが、竹山の三味線はだんだん良くなっていくんだね。それは、「出会い」が大きな要素になっている。門付けして三味線弾いても何も勉強にならない。唄会(民謡大会)もたいして勉強にならない。豊月との出会いが竹山を変えた。成田雲竹との出会いも大きかったのではないだろうか。

佐藤  それもありますね。雲竹さんからは、やっぱり唄の心を学んだのではないかな。竹山が知っている津軽唄というと、津軽じょんから、津軽よされ、津軽小原ぐらいで、その他の唄も雲竹が広めた津軽民謡の影響が強くほとんど雲竹から吸収している。雲竹は、まず唄を伝授するという方法をとった。唄の心というか三味線より唄を自分のものにすることを教えた。唄をちゃんと頭と体で覚えれば、三味線はなんぼでも弾けると言っている。

千空  だから、そういう点で、好きであったということは、つまり唄の心を学んだということだね。もう一つ、竹山は旅の心を深く知っている人だと思う。

佐藤 竹山の唄はめったに聴かれないがものすごくいいんですね、シャンソンとか、ほんとうにブルースみたいですよ。

千空  残っていますか。

佐藤  それはもう、確実に唄の心を掴んでいるんですね。あれは、三味線と関係があるんです。

千空  唄のもっている世界、詩やことばをしっかり掴んだ上での三味線ですね。だから他と違いますね。違う世界をもっている、広い領域をもっている。あらゆるものに対する感じ、唄に対する感じ、ことばに対する感じ、そして三味線を弾いている。雲竹と竹山のペアはどれぐらい続いたのかな。何年も続いたと思うのだが。テレビとかラジオで。竹山は出しゃばらないね。あれぐらい弾けると出しゃばるんじゃないですかね。

佐藤  そうです。三味線弾きは出しゃばれないんです。竹山はいつも言っていましたが、民謡の世界でも三味線弾きは出しゃばれない。ウデコ(唄い手)は、ちょっと声が良くてコンクールなどで一等をとると、それ一つでギャラがばっとはね上がる。それで三味線弾きをアゴで使い、そご少し速いとか遅いとか文句を言ってね。ウデコが十円とすれば三味線弾きが貰うのは三円だって竹山は嘆いていました。ずっとその関係が続くんです。身分の差別が非常に激しい。特に雲竹との場合もそうであった。だから、竹山は、自立しなければと、若い時から思っていたそうです。そういう世界の差別から抜け出して、ひとりで三味線で食っていこうとする自立精神が強かったと、自分でも言っています。

 

メシが食える芸道をめざす

千空  竹山という人は、芸道をわかってるんですね。芸道をやって歩きながらメシを食えるのは何であるか、芸道がはっきりすればメシが食えるという二つの関係が意識の底にあった。小さい時からわきまえていたプロ意識ですね。金銭についての意識がはっきりしている。すさまじい程である。豆腐がいくらで米がいくらだったと、記憶がはっきりしている。

佐藤  そう、そう、そうです。そう言われていま気がつきました。物価の記憶がとくにはっきりしているわけがわかりました。  

千空  食うということに対してものすごい。ただ金が儲かるということではなく、それは、切実な人間の生きざまでもありますね。中野重治の詩ではないけれど、「腹のたしになることをうたえ」という一節があるが、あれでしょうね。

佐藤  唄の心といえば、昔の津軽の人たちには、俚謡とか民謡という言葉はなく、うた、と言えばそれですんでいたんですね。うたというものの本来の意味がこめられていたのでしょうね。だからうたで通っていたもの、それで息づいていたものが、民謡という言葉に変わったころからだんだんつまらないものになっていったのではないかと思うんです。竹山も初めて雲竹とラジオに出演するために仙台の放送局へ行ったとき、「民謡の夕べ」と書いてあって、「民謡」って何だべと思ったそうです。

千空  そうすれば何でしょうか。

佐藤  国語学者によれば、歌のうたはウタガイ(疑い)、ウタタ(転)のウタと同じ語源で、「自分の気持ちをまっすぐに表現する」という意味だそうです。ウタタはウタウタの略で、心が動く様子、それがひどくなって不愉快きわまるとウタテとなり、これは今でも「わい、うだでじゃ」と津軽ことばに生きていますね。「心をこめてうだれ」「下手でもいいから心から出てくるうたを」と、竹山は言っています。

 

新聞社の民謡大会を拒絶

千空  竹山は、唯一プロと言っていい。昭和九年の東奥日報主催の民謡大会がありますね。竹内俊吉(東奥日報記者を経て元県知事)が企画したと思うのだが、レベルとしては高かったたんでしょうね。

佐藤  第一回の三味線伴奏は竹山でした。

千空  雲竹の伴奏をしたんですか。

佐藤  いや、そうではないのです。雲竹は審査員でした。南部からも津軽からも出演者全員の伴奏を竹山一人でやっていたそうです。毎年やるんだが、門付けしている彼にとっては、この時期は稼ぎどきであった。だからいついつやるから来てくれと言われても、すぐにできないので一回きりでやめたそうです。

千空  竹山は、その民謡大会をつまらないと言ってますね。コンクール形式だったため津軽民謡が変形されてしまっているのだそうだ。やたらに延ばしたり、短くしたり。だからどこから三味線が入っていいかわからない。お互いに秘密兵器みたいに曲をつくって唱っていたとか。あれは、民謡をだめにしたと言っている。それからは、せっかくの東奥日報の大会でも出演しなかったとか。偉いですね。

佐藤  ウデコは一曲唱って優勝すれば、プロですからね。だから馬鹿くさくて、一回出たきりでやめてしまった。竹山にすれば拒むわけですよ。

千空  かなり情っ張りだね。竹山は、徹底的に純粋な弾き手であった。三味線の音をどう純化するかということに精力をつくした。

佐藤  軍八郎は看板は日本一、三味線の神様軍八郎といわれた。ところが、悲惨な生涯で、惨憺たるものがあった。北海道を巡業してまわった時に肺病でだめになり、竹山が急きょ応援に頼まれ、行って後始末をしてやったそうです。病院に入れてやり米や野菜なども届けてやった。奥さんが付きそっていたが、ベッドのしたで寝る布団もゴザもなかった。竹山は、つくすだけつくしてやったが、間もなく亡くなった。そうしたら、おれも弟子だ、私も弟子だという者が多く出て来たので竹山は怒り狂ったそうです。

千空  怒り狂ったか。

佐藤  弟子だったら、死ぬ前に何かしたらいがべって、竹山は何回も言っていましたね。

 

三十四歳で盲唖学校へ入学

千空  竹山は、自分自身ではすごい苦しみの中で門付けをして歩いていた。あとで盲唖学校ですか。そこへ入学したんですね。

佐藤  八戸の盲唖学校ですね。

千空  三十四歳で盲唖学校へ入ったんですね。その時、教師が妊娠させた女の子を竹山が家に連れてきて、子を産ませていますね。奥さんに介護させて産ませたんだね。黙っていられない。普通の人がばかばかしくてやれないことを平気でやってしまうんだね。人間に対してのヒューマンな精神の持ち主ですね。亡くなった竹山の奥さんは、「イタコ」だったんですね。

佐藤  奥さんの生い立ちを聞き書きした記録が残っています。竹山があのように生きられたのは、奥さんのお陰なんですね。

千空  やっぱり、奥さんの世話になったんですね。

佐藤  イタコは、普通二、三年で修行を終えて自立するのだが、師匠のイタコが、意地悪で、そばにおいて、婿とって跡取りにするつもりでいたので九年半もそばにおいた。そのため苦労していじめられていたが師匠が亡くなってやっと解放され、もどってきて竹山と一緒になった。イタコだから稼ぎがあり、経済力があって、馬車いっぱい積んでくるぐらい米や野菜をもらってくる。八戸の盲唖学校に入学させたのも奥さんにすれば「カタギ」になってもうらうために「アンマ」とかマッサージなどをおぼえさせたかった。

千空  奥さんがやったんですか。

佐藤  授業料や」寄宿舎代など、奥さんが全部送っていた。竹山にしてみれば、二年もいてアンマの免許をとって帰ると思っていたが、奥さんは全部の免許を取れ、取れとすすめる。六年も入っていられるもんだな、とケンカしたが、奥さんはそれでも金を送って、学校を出るように仕向けた。奥さんは戦争の行く末や、将来のことを考え、なんとか自立できる職を身に付けさせようとしたんですね。時代をちゃんと読みとっていたのです。

千空  せっかく学校を出たというのに役にたたなかったとか。

佐藤  三味線弾きがアンマになったってお客は面白半分に来るんだろうが、一日にひとりとか、二人とか。だからその辺に飲みにいって遊んでいたそうだ。たまたま戦後、雲竹からの話があって、三味線をふたたび弾きはじめたのです。

                     

     末期のやすらぎ、いやしの音    

千空  変わりますが、純音楽的に言うなれば、津軽三味線は世界的にはジャズに近いですか。

佐藤  僕はそういうふうには思いません。よく津軽三味線はジャズのアドリブと同じだといわれますが、ジャズのアドリブは、どうでも思いつきでやればいいということではなく、約束ごとがあるんですね。三人か四人でやるでしょう。一つの曲を四小節ずつに区切って、どの小節はどの和音でというように約束がある。順番がくると、決まった和音の中で、自由に曲を変えてつくる。そのためにジャズマンは毎日稽古するわけですね。その点、津軽三味線にはきまりがなくでたらめで、どうでもその時その時で・・・。

千空  でたらめの中に秩序みたいな。しかし、竹山の三味線は世界に通用するわけですね。世界に通用するのはなぜですか。

佐藤  うーん。べつに世界に通用するというわけではないが、日本中のどこでも通用すれば、世界に通用するのではないだろうか。やはり彼のつむぎ出す音は、すごい思いというか、一音一音の中にすごい世界がこめられている。同じ音でも、楽譜のドレミファのドで、ピアノで弾こうがバイオリンで弾こうが同じ音に違いないのですが、人の解釈によって違うんですね。音に対してどれぐらい大事にして、心をこめて弾くかという、その音を元にして聴いたら、三味線を初めて聴いた人にも通ずると思うんですね。

千空  要するに、独特だということですね。

佐藤  農薬や殺虫剤などの化学物質がどれほど自然を破壊するかを警告した『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンというアメリカの海洋生物学者が亡くなってもう三十数年になりますが、最近、彼女の未好評原稿が遺稿集として刊行されました。その中で、ドビッシーの「海」という管弦楽のレコードの解説を書いているんですね。この曲は初演当時、海の景色を模写しているだけだとか、通俗的だとか、複製だとか、あまりいい評価でなかった。彼女はそうでないと言っている。「何億年もの間、すべての生命は海に棲んでいた。その一部は海から陸にあがり、長い年月の末、そのまた一部が人類となった。かつて海の生物だった私達人類は、今でも血液中に塩分をもっている。体内に海洋生活の遺産が残され、民族特有の海の記憶ともいえる何かがある。」
そういう魂の生命というものの音が曲の中から聴こえてくる、と言っているのです。竹山の三味線も生命の音が聴こえてくる。
  そのことで最近、私が感動したことがあります。信州諏訪の病院の院長さんの話です。八十八歳の父が脳卒中で倒れ、意識があるようなないような状態の重症だった。ひと月位たった夜、看護婦から連絡があり、いよいよだなと思って病室に行くと「びっくりするような光景が広がっていた」というのです。父の枕元にカセットレコーダーが置かれ、好きだった竹山の津軽三味線が小さな音で流れていた。ベッドの上で妻がお湯で足を洗ってマッサージを、娘は手をきれいに洗ってマッサージをし爪を切ってあげていた。そのまま亡くなった。多分、好きな津軽三味線を聴きながら、孫にマッサージをしてもらい、いい気持ちで三途の川を渡ったのではないか、と息子の院長は言うのです。NHKの『ラジオ深夜便』という雑誌に出ていて読んだんですが、今、死にいく人が、耳に聴こえてくる音、あるいは聴きたい音、ずっと聴いていた音、いのちの音というか、やすらぎの音というか、そういう音だったのではないでしょうか。美しい死に方だったと。

千空  安心ですね。やすらぎの音だったのか。

佐藤  竹山の三味線の音にはそれがある。この時代これから前途不安だらけで、人間として求めている平和とか、それに対して芸術家は応えていかなければいけない、って言っている。

千空  太宰治も『芸術家というのは、民衆に対していい音を流せばいいのだ』と。ころし文句だね。いい音を聴かせる。竹山は、人を助けると思ってやっているわけではないのだが、おのずから人々に対してやすらぎを与えている。ある爺さまが老衰で末期になって、なかなか息をひきとらない。その時分かれた婆さまが来て、仏壇の前でお経をあげたんですね、そうしたらすうっと逝った。みんなびっくり仰天した。意味が違うかもしれないが、これもやすらぎを与えたのではないか。そういう点で、竹山の音も人にやすらぎを与えているんでしょうね。私も一句でも二句でも、人に安らぎを与える句を創りたいね。竹山のもっている人間の大きさ、自然ですね。いろんな人間性が自然に出るんですね。

 

山で自然の音を聴き曲想を練る

佐藤  山が好きで、ひとりで山に毛布を一枚持っていって、寝転んで曲想を練ったんです。自然の音をよく聴くので、鳥の声のまねはすごくうまかった。

千空  おそらくは自然人なんですね。もうひとつは器用なんですね。

佐藤  竹山に、曲をつくれ、とけしかけ、よくケンカしました。「あんたの言うように三味線では弾けない」と言うものだから、「おれも三味線習って研究してみるはんで、我ごと弟子にしてけれ」って冗談言ったら、言下にだめだねって。なしてって聞いたら、学問頭(肌)の人はだめだって。理屈が先に出るからだめだって言っていました。

千空  秀才はだめなんだ。無知もだめなんだね。竹山という人は、機械に強く、ラジオ等でも直してしまうんでしょう。村を回っていたとき精米所の機械がこわれたと言われ、直してしまったという。どうして分かるかと言うと、音を聞いて分かると言っている。ザーザーザーってする音を聞くと、どこが悪いか故障のところが分かるって言っていましたね。

佐藤  タクシーに乗っても、この運転下手だなって分かる。エンジンの音聞いて分かるんですね。

千空  いま風邪ひいて医者に行っているが、いい医者は、聴診器で、肺の音や心臓の音を聴いて、悪いところが分かるんですね。竹山という人はおそらく、三味線の構造については、ものすごくくわしく知っているのだと思う。完全に自分のものにしてしまう。竹山は広い大衆に対しても心で分かる。生きているという感じである。生きものとして音を掴んでいるし、自然の音に対しても生きものとして掴んでいる。生命があって、それをどう音に出すかで苦心している。どういう音がいい音なのだろうか、竹山にとっては。

佐藤  難しい問題ですね。

 

竹山の音には実体がある

千空  佐藤さんの感じる音と、竹山の感じると音と違うんでしょうか。

佐藤  彼が言っているいい音とは、きれいとか、美しいとかではなく、音の中に実体がある。よくしゃべっていても、書いていても、読んでいても、文字というのは所詮記号です。もともと竹山は文字を知らず、文字をもっていない人です。あの人にとってしゃべる言葉、聞く言葉みんな一つ一つ実体がある。実体のない言葉は抽象的でわからない。ある仏教関係の月刊誌の女性記者が取材に来てね、死ぬとか生きるとかの話をしたあとで、竹山へ「師匠は『死』についてどう思いますか」って質問したんですね。普段は、いつもそばに居て、意味のわからないときは助言していたのですが、その時はきっかけをなくして私が黙っていたものだから、二、三分考えていましたが、ようやく口を開いたら、「最近は特につまらなくなった。ほれだだの、ねぱただの、骨まで愛しただのって馬鹿らしい」と言った。そうしたら、その女性記者は、正座し両手をついて「恐れ入りました」と言って帰っていきました。あとで大笑いしましたが、「なんだと思って聞いただばって」竹山に話したら、「民謡の歌詞だと思った」と」言ってね。

千空  「アハハハ・・・」(千空笑う)

佐藤  死というような実体のない言葉、抽象的な言葉は理解できないんですね。また、よくテレビなどで若いアナウンサーから「師匠にとって三味線は何ですか」と質問される。「三味線は、三味線だでばな」と、竹山は答えようがない。「あなたにとって三味線はなんですか」と言われたって、「おれにとってもだれにとっても三味線は三味線だでばな」と。ことばには生きている実体があるんです。
  そのことで教えられたことは、新藤兼人の映画ができて、竹山に「行こう」ってロシアに連れていった時です。竹山が「ズナコム」というロシア語を思い出した、と言うのです。通訳に聞いてみたらそれはズナコムではなくてズナコームイという形容詞みたいですね。「あなたと私は、本当の友達で、親しい間柄だ」という意味だったんです。「どうしておべでらば」と竹山に聞くと、門付けして歩いて、二十歳前後に樺太に渡ったとき、若い日系露人と仲良くなったそうです。その露人は日本の下働きで、カタコトの日本語を話すので仲良しになったそうです。そのロシア人が竹山の肩をたたきながら、ズナコム、ズナコムといって一緒に飲んだそうだが、五十年前のその言葉をロシアへ行って思い出したんですね、彼にとって、「汝と我、けやぐだね」と言って酒を飲んだときの言葉なんですね、ズナコームイという言葉は、体に染み付いて忘れないんですね。私たちなら、友情とか、連帯とか、抽象的な味気ない言葉で言ってしまうが、彼にとっては実体としての言葉なんです。それが彼の言葉です。その後私は読む場合も、記号としてだけ読むのではなく、できれば声を出して読んだ方が良いと思っているんです。
  黙読でなくてね、もともと声であったはずですからね。

千空  言葉ですからね。それでね、さっき出会いを問題にしましたが、私はね、竹山という人は東奥日報の大会のあったころから三味線弾きとして一目おかれていたんですね。

佐藤  はい、ボサマ、ホイドと差別されながらですがね。

千空  成田雲竹がいちはやく認めている。竹山という名は雲竹が付けたんですね。指名されたというのは、当時はひっそりと、かくれた存在であった。

佐藤  雲竹は民謡の名人であり、竹山にとっては雲の上の人。唄い手と三味線弾きとの差別とボサマへの蔑視とか複雑なものがありました。尊敬と同時に差別されていることへの憤りを、私はずいぶん聞かされました。

 

労音との出会いで世界が広がる

千空  ただね、それを音楽家としてひき出したもう一つの出会いがあったんですね。それが労音(勤労者音楽協議会)だと思うんです。労音がなければ竹山は今のような形で世には出なかったと思うんです。

佐藤  それは決定的だと思います。

千空  あの東奥日報大会でもなく、労音と出会って、初めて大衆の中に、はっきり本領を発揮していったのではないか、この労音の存在はものすごく大きいですね。佐藤さんが労音の仕事をしていて、竹山と接触することになるわけですね。それが竹山が世に出る大きなきっかけになった。それは、いつごろですか。

佐藤  1960年代の末ごろになると、全国の労音の会員は、60万人を超える大きな組織であった。いい音楽を安く、多くの人で聴くという運動であった。つまらないものでなく、いい音楽を聴く、受身ではなく積極的に聴く、そうした若い聴き手と竹山は初めて出会ったのです。でも出会って、すぐ結びつくというわけではなかった。あのころ、落語の二つ目の若い芸人が一万円の謝礼のとき、竹山は六千円だった。竹山は、謝礼は安かったが若い人達に聴いてもらうというので演奏会を続けていった。このころから民謡酒場が流行して、有名な芸人は、みな酒場で演奏したが、竹山は行かなかった。金のためでなく、いい客に聴いてもらうことを大事にしたのですね。それがだんだん広がって定着していったと思う。それまでに、十年かかりましたね。

千空  それは俳句につながるんですが、竹山の知名度とか関心というのは、そういう広がりの中から出てくるんですね。佐藤さんが竹山と出会って、竹山の本領を引きだして、どんどん拡げ紹介しつづけた。それが東京のジァンジァンでやるようになったんですね。ジァンジァンではどのくらいやったでしょうね。

佐藤  二十年位やりました。

千空  どんなところですか、ジァンジァンは。

佐藤  150人ぐらい入るといっぱいになる渋谷の教会の地下にあるちっちゃな所です。そこへ多い時は300人以上、身動きできないほど入りましたね。しまいには舞台の竹山の足元までとり囲むようにやったことも何回もありましたよ。

千空  庶民の人達が聴きに来たんですね。

佐藤  若い人達がたくさん来てくれました。

千空  若い人達ですか。そこで二十何年もやるというのは毎年やったんですか。

佐藤  毎月やりました。定期的にやりました。後半は隔月になりましたが。

千空  三味線というのは、昔から津軽ではずっとやって来ているが、若い人達は聴きに来ませんね。若い人達を惹きつけたということは大きいね。きっかけは何だったんでしょね。

佐藤  あのころ、やっぱり六十年安保の時代で、六十五年代にはアメリカの北爆が始まり、世界に戦争反対の運動がおこった。日本でも若い人達がベトナム問題を真剣に考えて、北爆の問題を日本でもあちこちで考えるようになった。若者の意識が高まった時代であった。竹山は全国的には無名であったが、だんだん若者に広がっていった。

千空  佐藤さんの力が大きいですね。

佐藤  そういうことはありません。ただお手伝いしただけです。

千空  ちゃんと、竹山は書いていますね。佐藤さんにお世話になったってね。佐藤さんが竹山に入れあげたのではないか。労音でしたことが、ずっとつながっていったと思うんですが・・・。

佐藤  とにかくこの人の三味線というのは、めったにない音色であることはわかるんだが、それをステージで聴かせるためには、一時間なり、一時間半なりのプログラムをつくらなければならない。曲のレパートリーがないんですね。

千空  曲がなかったんだ。

佐藤  新しい作曲をしなければならない。友達の作曲家にも頼んだが、全然だめなんです。あわないんです。つまり、竹山が本当に自信をもって、「これはいい」という曲ができてこないんですね。

千空  できなんですか。

佐藤  それは無理ないと思うんです。西洋音楽を勉強してきた人が、津軽の、風土の匂いのするような音をつくるということは無理ですね。これはやっぱり竹山自身が、自分の内部から出てくる音を創りだすために外国の曲にも学び、現代音楽の成果もとり入れ、津軽を土台にした自分の曲を創らなければならないと、竹山自身が自覚するようになった。その葛藤で、ものすごく勉強した。

千空  ずい分と論争したでしょうね。

佐藤  論争もいいところで、「おめ、やってみろ」と、素人の私に対して「三味線弾いでみろ」って逆上してね。私は「名人でも弾けねのが」とやり返すといったアンバイでした。

千空  どんな論争をしたんでしょうか。

 

世界の民謡やクラシックも聴く

佐藤  とにかく世界のおもだった音楽を全部聴いてもらわなくちゃと思いました。やっぱりバッハを聴いてモーツァルトを聴いても竹山はわかるんだね。ややこしいシンフォニーなどは難しくてだめだけれど、単純なものはものすごくわかる。しょっちゅう聴いていましたね。

千空  広い世界のものをね。

佐藤  クラシックだけでなく、韓国・ベトナム・沖縄のものなど。フラメンコギター・中南米のフォークローレ・黒人のゴスペルソング・ブルースなど、全般にわたりました。民謡以外ほとんど知らない人でしたから、それを全部レコードで聴いて、それで、竹山の音楽世界というものが、広がっていったんです。

千空  それは大きいですね。

佐藤  こっちは三味線について素人だから、何でも要求できるんですね。だから、竹山が頭にきて、「おめ、そんなごと注文しても、三味線でできるわげねえべ」ってね、こっちもカラクヂ(へらず口)きくんですね。「なんだ、名人といってもたいしたごとねでば」ってね。すると、彼はムキになって勉強して、曲を創りあげるんです。

千空  佐藤さんの竹山に対しての思いと、また、竹山は、才能をひき出すというか、創造する仕事に手伝いしてくれたと言っていますね。ところで竹山には、どれぐらいのレパートリーがあるんですか。

佐藤  一晩一人でやれるほどはもってました。

千空  三味線というのは音譜がないんですか。

佐藤  ないです。

千空  竹山の三味線を一応基本的に習うということはむつかしいわけですね。

佐藤  弟子はみな習っていますが、そこから先に進むのがむつかしんですね。竹山が創りあげた三味線の世界は、何代目とかいう継承する家元の世界ではなくて、個人の自立した音楽だと思っています。

千空  竹山のは音譜はないし、結局音を聴いて、「感じ」でおぼえるんですね。お宅で聴いたのは「岩木」でしたか。

佐藤  「即興曲岩木」です。私が名をつけました。

千空  いい曲で大作だと思うんですが、あれは二十分ぐらいか、三十分ぐらいかな。あれを聴いて一句できました。

目つぶしの雪降りしきる津軽三味

佐藤  あれは、普通は十二、三分、ちょっと興にのれば二十分ぐらい弾きます。竹山が、いつもプログラムの最後に弾く大曲で、一番うけるんです。あの曲の手法はわりとやさしいんだって、竹山は言いますね。本当に難しいのは、冒頭に弾く三味線じょんから、三味線よされという二、三分の地味な曲、あれがほんとうにいいんだと言っていますね。

千空  昔ね、軍八郎でも誰でも、よされ、じょんからの唄の伴奏としての三味線だが、いいどごで終わる。唄を抜いた伴奏だけでも、津軽三味線の中に本音みたいなものがあって、それを竹山がわかって本領を出しているんですね。従来の良さを出している。あまり間引きしないでしょう。竹山のもっている素朴な味がいいんですね。

佐藤  ほんとうに津軽じょんから、津軽よされを聴くと、津軽の音が聴こえてきます。

千空  竹山は、尺八もやるし、横笛も吹くし、唄もうだるしね。あらゆる民謡に関するものをこなしている。全部聴いたらおもしろいね。唄は、雲竹とちがう独特な味をもっていますね。ジァンジァンでは民謡も唱ったんでしょう。

佐藤  やりました。

千空  やっぱり唱いましたか。

佐藤  すごくいい唄です。竹山は、「おれは声が悪ぐなった」と言うんです。私は、「そんなことはない、三味線のようにいい」と言うのですが・・・・・。

千空  心をもっていますからね。

 

竹山の音は次世代に引き継げるか

千空  これから竹山の津軽三味線が時代にどう影響していくか、どう引き継ぐかですね。

佐藤  伝える若者がでてくるんじゃないですか。

千空  竹山のような人が出てくるでしょうか。

佐藤  たぶん、出てくるだろうと思います、若い人たちの中からね。ただ、竹山の音楽を聴いて、豪快な味わいと同時に、人生の深い哀しみみたいなもの、これをどう乗り越えて生きていくかという、この哀しみはなんだろうかと考えると、やっぱり、あの人が生まれて来た時から受けた差別、この人生の中で、いくら戦ったとしても切ることのできない、消え去らないものですね。

千空  差別や哀しみがものすごく伝わってくる。にじんでくる。それが染みついていて、独特なものをもっていて、このような人は二度と出ないだろうね。立ち上がってそれが音に出てくる。竹山は出ないね。出ない。

佐藤  しかし、差別は、これからますます隠微な形で広がると思いますね。

千空  佐藤さんが書いているし、俳句、短歌・川柳でも言われているんですが、つまり風土性ですね。風土の魂っていうか竹山は見事に三味線の世界で表現した。風土というものは特殊なものですね。特殊な世界のものが、なぜ普遍性の世界をとらえられないか。大問題ですね。風土性をとらえればとらえるほど特殊性はでるけれども普遍性が欠ける。そういう場合に竹山は、風土性を三味線でピタッと定着したことによって特殊性をとらえた。

佐藤  特殊性をとらえれば、普遍性をとらえる。

千空  普遍性をとらえないと、特殊性は無効なんですね。

佐藤  日本の民族的な真実なものは、国際的になるんですね。

千空  そうですね。世界を獲得したことになるんです。風土性を完璧にとらえれば、それは普遍性の世界に通ずることで、棟方志功なんかもそうですね。中途半端の風土性の世界では、それだけに単なる特殊で終わってしまう。そういう点では、竹山は三味線で見事に見せてくれましたね。こんな仕事はめったにないことで、奇蹟に近いむつかしさがある。竹山の三味線を聴く度に頑張らなくちゃと思いますね。竹山について、佐藤さんに本を書いてもらいたいですね。どういうことを言ったか、エピソードとか。

佐藤  東奥日報が夕刊に連載した竹山の評伝が本になりましたし、私も「自伝」以後のことを一冊書きました。『高橋竹山に聴く---津軽から世界へ』と名づけ、聴くということを少し掘り下げて考えてみました。近く集英社新書の一冊として出版されます。

千空  特に言いたいことはないですか。いつ亡くなったんですか。

佐藤  亡くなったのは1998年2月5日、87歳でした。1910年生まれですから私より16歳上です。一番上の兄という年齢関係ですが、やっぱり大きくて兄よりも親ですね。

千空  ゴッホであろうと誰であろうと助ける人が居ないとだめなんですね。芸術の世界は全部そうです。そういう意味では、佐藤さんが竹山を助けたということになるんですね。文化的な意味でも大きなことですね。竹山は幸いにも青森県の文化賞をもらったわけですから。竹山の大きさは語りつくせませんが、この辺で・・・。  (まとめ/櫻庭利弘)

 

<お断り>

対談では両者すべて「竹山さん」と呼んでいたが、文字化するとわずらわしいので敬称を省略しました。

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転載に快く承諾して下さいました文芸出版社ならびに故・佐藤貞樹氏と
故・成田千空氏に心からお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

特別番組

夢の競演

中国国際放送局(北京放送)の許可を得て、新春特別番組「夢の競演・中国民族楽器の巨匠達」より、
中国の民間音楽家で二胡と琵琶の巨匠・阿炳(あびん)と、初代・高橋竹山の津軽三味線との競演を配信しております。

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