高橋竹山関係書籍のご案内

オレンジのタイトルをクリックすることで購入可能です

 

〜高橋竹山 評伝〜
魂の音色

貧困・差別に耐え、三味線ひと筋流浪の半生を描いた渾身の一冊。竹山ファンの座右の書となるであろう。

1998年に亡くなった津軽三味線の名匠・初代高橋竹山の波瀾に満ちた87年の生涯をつづった東奥日報夕刊の長期連載に大幅加筆し単行本化した。貧困や盲目ゆえの差別に耐え、門(かど)付け芸にすぎなかった津軽三味線を芸術の域まで高め、生活の真実から発せられる“音”で日本人の心を震わせた竹山。その姿を全国の弟子や労音関係者らの証言、多数の資料に基づいてたどり、竹山の人間像や三味線人生を鮮やかに描き出した。
(著者よりご恵贈いただきました)

                (朝日新聞 読書欄に書評が掲載されています

                      東奥日報社刊 松林拓司著

高橋竹山に聴く
  --津軽から世界へ--

 

津軽三味線の名人、高橋竹山は、1926年10月、16歳でボサマとして一立ちした。ボサマというのは、門付けをしながら放浪する盲目の旅芸人のことである。2歳で力を失った貧しい少年の生きる道は、ボサマになるしかなかったのだ。それから87歳でなくなるまで、竹山は三味線一筋に生きる。生きるための三味線だった・・・・・。本書は、竹山の晩年の30年を共に生きた音楽プロデューサーが描く、高橋竹山の人生とその音楽の真実に迫る、渾身の聴き書きであり、全国津軽三味線奏者の座右の書として手元に置きたい一冊。
(著者よりご恵贈いただきました。

集英社新書 佐藤貞樹

自伝・津軽三味線ひとり旅

青森新芸術鑑賞協会事務局長であり、竹山氏のプロデューサーでもあった故・佐藤貞樹氏が、折に触れて竹山氏の話を書き留めておいたものをまとめた渾身の聞き書きである。その半生の歩みは、日本の芸能史のこれまで光のあたらなかった側面のいくらかを明らかにしてくれる。貧しく眼の不自由な一人の人間が、いかに生きたかの半生記としても感銘を与えてくれる津軽三味線奏者のバイブルでもある。


1975年初版本 新書館

1997年新装版 新書館


中公文庫

おらの三味線いのちの音だ

1983年にポプラ社からノンフィクションシリーズとして発刊されたもので、津軽三味線ひとり旅の聞き書きをされた故・佐藤貞樹氏が子供向けにと書き下ろしたものである。カナもふってあって子供達にも読みやすく仕上がっている。
「どんなものにもいのちがある。いのちあるものをそまつにしてはいけない。なにをやるにも、それにたましいをいれろ。いれなければ、生きたホンモノにはならない」竹山さんの三味線には、竹山さんのたましいがはいっている。だから竹山さんのからだそのものだ。その音は、竹山さんのこころそのものだ。三味線は竹山さんとともに生きている。その音もまた生きている。それがぼくたちのこころにひびくのだ、と子供達にいのちの大切さを説いている素晴らしい書である。

音の旅人
津軽三味線・高橋竹山ものがたり

1986年に金の星社から発刊されたもので、上記の自伝・津軽三味線ひとり旅他を元に藤田博保氏が児童用に物語りとして書き下ろしたものである。高田勲氏の挿絵が随所に盛り込まれ、厚生省児童福祉審議会特別推薦にもなっている。幼少時代から修業時代、そして成田雲竹との出会いなど、親子の愛、師弟愛に満ちあふれた竹山の半生を描き出している感動作品。民謡、三味線関係者にもたいへん参考になる一冊である。

 

竹山津軽三味線

すでに絶版となってしまったが、高木恭造の方言詩、長部日出雄/山田 尚の文に葛西梧郎の写真集。特に葛西梧郎の高橋竹山の映像にかけた情熱と気迫は、津軽の土に脈々と受け継がれてきた津軽三味線の系譜や、人間的なやさしさや貧しさなくしては語れない生活の営みを再発見し、視覚的なイメージから竹山師の側面なり魅力も発見できた貴重な一冊である。

  津軽書房

 

竹女ぼさま三味線をひく

著者の夫は青森県芸術鑑賞協会の設立に係わったのち、高橋竹山のプロデューサーとして、世界の竹山に名を知らしめた故佐藤貞樹氏である。高橋竹山より16歳年上でボサマの手引きをしながらその芸を引き継ぎ、津軽三味線の芸域を高めた故市川竹女の生涯を通じて津軽のボサマたちの世界を描いている。市川竹女が、「ぼさま」のことを書き残して置かなくてはと、著者に訴えて生まれた本著は、竹女の証言だけでなく、著者自身が一緒に青森中を巡ってボサマたちの足跡を辿るなど、津軽三味線、津軽民謡の略史として、また研究資料としても優れた作品である。竹女とは旧知の仲であった高橋竹山や恩師・成田雲竹、津軽三味線の始祖と言われている仁太坊などについての証言も豊富で面白い。津軽三味線を深く知るためにも、関係者には是非読んでもらいたい渾身の一冊である。(著者よりご恵贈いただきました)

           津軽書房 野澤陽子著

       高橋竹山 その人と芸の底を流れるもの

 津軽三味線は鎮魂の曲である。竹山師の三味線が醸す
玄妙婉麗な音色の秘密を求めて 著者はあてどもない旅に出る。なんの欲もなく、ただ生きるために三味線を弾いて諸国を流浪して歩く。どこの野に倒れ伏すかもわからない。それでも誰を恨まず、黙って死んでいく。こういう精神をいまの世の中で、どこの誰に求めることができるだろうか。これをしも高貴な精神といわなかったら、何といったらいいだろうか。
ホイド(乞食)とはホイト(祝人)であり、元来家々に祝福をもたらして歩く人間であるはずである。としたら、こういう人間こそ、紋付を着せたっておかしくない。 竹山さんの紋付は黒である。(本文より)

   立風書房


東奥日報社

みちのく民謡ばなし

本書は青森放送のディレクターであり、民謡研究家の松木宏泰氏が長年にわたって青森県の民謡を収集し、独自の考察を加えて、昭和51年6月から40回、東奥日報紙上に連載されました。それに加筆、追加してまとめ、昭和52年に東奥日報社から発行されたものです。残念ながら今は廃刊となってしまいましたが、随所に同社の山口晴温氏の挿絵が入り、特に故成田雲竹氏と故高橋竹山のコンビが、囲炉裏端で民謡を制作している挿絵はなどは、「こうして津軽民謡の数々が生み出されたのだ」という様子が伺えて何とも言えない味を出しています。いまは歌われいない歌詞も豊富に掲載されており、当時津軽民謡を学ぶものにはバイブル的な本でありました。

 


津軽の民謡といってみたところで、おらもじょんから、よされ、おはら、など五つか六つしか知らなかった。雲竹さんは、むかしからたくさん知っているが、それには三味線がついていないもので、舞台でうたったり、放送の時に三味線がほしい。「高橋、何月何日に放送するから、これに三味線つけろじゃ」 いわれれば、おらもつけないわけにいかないし、とにかく雲竹さんのうたをきいて、覚えてそれに、おらが三味線をつけた。弥三郎節、十三の砂山、鰺ヶ沢甚句、とらじょ様、リンゴ節、ワイハ節などみなそうだ

新藤兼人と竹山ひとり旅

津軽三味線の名人・高橋竹山の苦難の半生を中心に自ら、放浪芸人を名乗る若き日の竹山を描いた映画「竹山ひとり旅」のシナリオ付きで、シネ・フロントの別冊として発刊されものである。 「竹山ひとり旅の作家意識をめぐって」と題して、新藤兼人監督と映画評論家・佐藤忠男氏との対談や、新藤兼人研究と題して、「竹山ひとり旅」の構造について、女と性のテーマについて、社会的なテーマについてなど、また監督のプロフィルやフィルモグラフィも付いている。竹山ファンにとっても、新藤兼人ファンにとっても嬉しい一冊である。

高橋竹山。本名は定蔵で明治43年6月17日生まれ。母トヨ、父定吉。定蔵は三歳の時に、麻疹をこじらせ、半失明。この年は東北地方が大兇作で、母の必死の看病もかなわなかった。定蔵は、他の子供たちと同じ様に勉強ができないため、小学校も途中で退学。15歳になった時、行く末を心配した母により、隣村のボザマ戸田重太郎の弟子として住み込む。彼は、ボサマから三味線と唄を習った。そして、青森、秋田、北海道などをまわった。17歳の時、独立。青森の十日町に、社会の底辺に生きる芸人や貧しさの中にも、明るく生きる人々がいた。定蔵はそこで、多くの友人を得た。定蔵は、船小屋で寝たり、山の中の小屋で寝たり、三味線があるから独りでも寂しくはなかった。そして、彼はひとりの時はかならず、三味線の稽古をするのであった。こうして、定蔵の三味線は、貧しさと戦い、生きつづけるなかで、次第にに鍛えられていったのだ。母はそんな彼の姿を見て、ひそかに、涙を流したのである。そのうち八戸の盲唖学校へ入学。そして、戦後の25年、津軽民謡の大御所であった成田雲竹の伴奏者となって、竹山の号をもらった。時に竹山四十一歳であった。 

シネ・フロント 別冊1


戻る