南アフリカ公演「Japan Festival '99」から

(国際交流基金による)
日本週間'99 津軽三味線チャリティコンサート


南アフリカ共和国について

公演レポート-1

南アフリカ公演行きが決まるまで

在南ア大使館から故・初代高橋竹山師の自宅に連絡が入ったのは1999年の1月ごろであったろうと思う。津軽三味線で数名程派遣してもらえないかとの要請を受けたのである。

一人なら二代目さんや竹○氏もいるが数名となると栄山師にあたるしかないと、この話を早速、神戸の栄山師宅に相談する。だが、飛行機嫌いの栄山師はこの話に乗るわけがなく、また海のものとも山のものともつかない南アフリカだなんてとんでもないと思った。

これを聞いた妻の雲栄師と愛娘の純子さんは「南アフリカならいってみたいな」と思い、栄山師はとりあえず、この話を埼玉で活躍している右腕の山本竹勇にも相談を入れた。竹勇は故竹山師からの信頼も厚く、昨年同じ大使館の仕事でロシアのモスクワ公演を成功させている。

「まだ海のものとも山のものともつかない話だが、もしもの場合は協力して欲しい」と言われたものの、竹勇も南アメリカならわかるが南アフリカと聞いてビックリしてしまった。どうも国際交流基金の助成を受けての公演らしいとわかり、これならロシアと同じだし先生の役に立てるかもしれないと喜んで引き受けた。そして、同行者の選択も任せられたのである。

ちょうどその頃、栄山師のマネージャー的なことを引き受けていたT氏も、「先生!これからは海外公演のひとつもやらなければ大きいものにはなれない,先生方の芸なら必ず世界に通用する」と言って、師を諭すことになる。T氏の愛妻がオペラ等のプロモーションも手がけていたし本人も英語が堪能なことから現地との折衝にあたるからということになった。

まだ半信半疑の栄山師がその気になるのは5月に入ってからである。5月に入ってから、在南ア大使館の公使から正式な招聘状が届いた。
南アフリカでの津軽三味線公演は初めてであることと、その収益金がマンデラ基金を通じて、南アの子供の達の教育資金に使われることなどから、栄山師は「それならひとつ死んだつもりになってやってみるか!」という気になったのである。
神戸という土地柄、阪神大震災や暴力団の抗争事件にも遭遇している栄山師には、恐いものはなかった。

参加者は当初、高橋栄山、須藤雲栄、長崎純子の家族と山本竹勇、それに竹勇の弟子で昨年ロシアにも同行した野崎竹勇雅、そしてT氏であったが、T氏が仕事の関係でどうしても都合がつかなくなり、彼も「どうせ行くなら芸のできる人を連れていったほうがいい」とも言ってくれた。
しかし、現地との折衝にもあたり英語にも堪能なことからT氏をあてにしていた栄山師には不安であった。

そしてまた竹勇に相談した。竹勇も昨年のことで慣れていたし、英語も堪能とまでは行かないが少しは出来たので、現地との連絡をT氏から引き受けることになったのである。
ちょうど大使館でも文化担当者が入れ替わりタイミングもよかった。T氏がいままでしっかりと折衝していたお陰で竹勇もEメールとFAXを駆使して、その後の連絡はスムーズに行われた。
T氏抜けたことで同行者をどうするかということになり、雲栄師の母であり津軽民謡の大御所、故・須藤タキ師のもとで修行した丸山竹仙が同行することに決まったのである。

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 山本竹勇・津軽三味線の世界